「賄い」は「余り物」の処理、
意地でも「食い物」は捨てない「勿体無い」精神を発揮する場でもある。
「自宅での食事」「賄い」でも、「寄る年波」最後の一口、一品が「余る」。
当店ライブやら、「ブッフェ形式」の「食べ残し」がある。
「仕込み」の材料が、チョイ余る。
「お客様」が来ないので、食っちまわなきゃならない物がある。
etc.etc.etc.etc...........。
ただの一言「余り物」と、言い切るには忍びないのだが…。
まずは「食ってしまう」「人にあげる」等の努力はする。
が、しょうがない、それでもどうにもならない時は「冷凍」と、相成る。
当店の「冷凍庫」のみならず、我が家のそれにも、
「お宝」数々は唸っている。
んで、「パズルのピース」よろしく、あれこれ溜まれば「何か一品」になる。
もし「売り物」にでもなって、「お金」に変われば「ラッキー」、
「賄い」になったとしても、充分「お役」にたったってもの。
ただ「何か一品」の「形をなす」ためには、
「記憶力」やら「発想の転換」やらが必要になる。
まずは「何」が「何処」にあるか忘れてしまったら、元も子もない。
私「記憶力」には、かなりなところ「自信」はないが、
なぜか「食い物」のことは、けっこう覚えている。
ま、「卑しい」んでしょうな。それ以外の理由は思いつかぬ。
と「発想の転換」、これは相当大事。
今回の「炒飯」には、冷凍してあった「鶏」の詰め物の残りも入った。
「詰め物」の中身は、「ほうれん草」「ご飯」は良いとして、
「クランベリー」「ナッツ」「チーズ」等も混ざっている。
「炒飯に、クランベリーかよ!ウエッ!」てんなら、「余り物処理」の才能はない。
「ピリッ」と、たまに当たる「酸味」が、「紅生姜みたい!」
とか思う様な「発想の転換」がないと、「お宝」は減らない。
ちなみに、焦げた「チーズ」の味が、グットではありました。
「発想の転換」のもう一つの方向は、「原形」の変化。
もちろんの事、「余り物」が「原形」のまま使えるんだったら、問題はない。
が、「サイコロ状」「みじん切り」にする事によって、
一つ一つの材料が目立たなくなり、見た目のアンサンブルが良くなる。
「炒飯」は、この「手」を使っている。
し、例えば「ミキサー」にかけて、「デロデロ」の液体にしてしまえば、
「ソース」の様にも使える様にもなるし、
「ご飯」「パン」等は、「ソースの濃度」を出すためにも使える。
そんな、こんな...........。
けどね、あれもこれも「冷凍」なんて事していたら、
チョイの間に「冷凍庫」はグチャングチャン。
事実、年末年始のドタバタの後始末が、今頃、やっと先が見えてきたところ。
最近は「根性」「意地」も希薄になって、
時に「捨てりゃあ、良いジャン」なんて思ったりもする。
「勿体無い」精神も「クソ」ない。
newport宮木英貴
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