「余り物」「忘れ物」を「賄い」に転化した割には、
売り物になりそうな程「ベタ」な一皿になった。
GW明けの4日間の「休み」前に茹でてあった物が、
頭の中から、きれいに抜け落ちていて、
休み明けの昨日、何かの陰ならいざ知らず、ど真ん中から発見された。
かつては、冷蔵庫の中の「どこに、何が、いくつ、いつから」入っているか、
完全にインプットされていた。
その記憶力は、動かずして「棚卸し」が出来たほどであった。
もっとも、そのピークは20代半ば頃の事、現状は「悲しい」の一言、情けない。
ところで、ブロッコリーの扱いには隔世の感がある。
かつて暮らした「ベネズエラ」で売られていた「ブロッコリー」は、
「茎」は長さ30cmはあり、「葉っぱ」が付いたままだ。
先っぽの花の部分は、なるべく長く細い「茎」を付けて。
太い「茎」は、筋っぽい皮を剥いて、柔らかい部分を。
「茹でる」「煮る」「炒める」して食う。
生活は苦しいだけに、食えるところはちゃんと食おうとする。
捨てるところは、なるべく少なくしようって姿勢には、
おおいに、関心したものだ。
日本を離れた当時、日本では「ブロッコリー」は「花」部分だけを食っていた。
後は「チャイ」。捨てていた。
帰国後、某札幌の「イタリアン」に勤めた時、細い「茎」は付けていた。
「おー日本も変わった!」と、思ったものだった。
小樽で、某「海猫屋」に勤めていたときは、
「茎」が「残ってくる、こない」が、だいたい半々。
自分で店を開いた時も、半々くらいかな?
いつぞやは「ここは食うところじゃないんだよ」と目で訴え、
目の前で吐き捨てられた事があった。
「知らないみたいだから教えてあげるけど、ここは食べられないの。」
と、おっしゃる、ご夫人もいらっしゃった。
いずれも、暗に「この田舎者」みたいな顔をしてだ。嫌な思い出だ。
こちらににしてみりゃ「物を粗末にする愚か者めっ!」てな気分だったが。
ところが、4年位前、新しい店になった当りから、変化してきた。
今では、「茎」が残されてくる事はほとんどない。
素晴らしい事だ。
まあ、日本も「捨てる」事にシビアになって来たのかもしれないが。
newport宮木 英貴
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