2012年5月12日土曜日

5/11金曜 ブロッコリーとトマトのパスタ


「余り物」「忘れ物」を「賄い」に転化した割には、
売り物になりそうな程「ベタ」な一皿になった。

GW明けの4日間の「休み」前に茹でてあった物が、
頭の中から、きれいに抜け落ちていて、
休み明けの昨日、何かの陰ならいざ知らず、ど真ん中から発見された。

かつては、冷蔵庫の中の「どこに、何が、いくつ、いつから」入っているか、
完全にインプットされていた。
その記憶力は、動かずして「棚卸し」が出来たほどであった。
もっとも、そのピークは20代半ば頃の事、現状は「悲しい」の一言、情けない。


ところで、ブロッコリーの扱いには隔世の感がある。

かつて暮らした「ベネズエラ」で売られていた「ブロッコリー」は、
「茎」は長さ30cmはあり、「葉っぱ」が付いたままだ。
先っぽの花の部分は、なるべく長く細い「茎」を付けて。
太い「茎」は、筋っぽい皮を剥いて、柔らかい部分を。
「茹でる」「煮る」「炒める」して食う。
生活は苦しいだけに、食えるところはちゃんと食おうとする。

捨てるところは、なるべく少なくしようって姿勢には、
おおいに、関心したものだ。


日本を離れた当時、日本では「ブロッコリー」は「花」部分だけを食っていた。
後は「チャイ」。捨てていた。
帰国後、某札幌の「イタリアン」に勤めた時、細い「茎」は付けていた。
「おー日本も変わった!」と、思ったものだった。
小樽で、某「海猫屋」に勤めていたときは、
「茎」が「残ってくる、こない」が、だいたい半々。
自分で店を開いた時も、半々くらいかな?

いつぞやは「ここは食うところじゃないんだよ」と目で訴え、
目の前で吐き捨てられた事があった。
「知らないみたいだから教えてあげるけど、ここは食べられないの。」
と、おっしゃる、ご夫人もいらっしゃった。
いずれも、暗に「この田舎者」みたいな顔をしてだ。嫌な思い出だ。
こちらににしてみりゃ「物を粗末にする愚か者めっ!」てな気分だったが。

ところが、4年位前、新しい店になった当りから、変化してきた。
今では、「茎」が残されてくる事はほとんどない。
素晴らしい事だ。

まあ、日本も「捨てる」事にシビアになって来たのかもしれないが。


newport宮木 英貴




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