2012年10月19日金曜日

10/18木曜 炒飯


残った「米の飯」を、セッセと冷凍庫に貯めて、良い量になったら「炒飯」。
「賄い」のパターンとしては、そんなところ。

ほとんどの「日本人」は、そうだと思うが、子供の頃から、
「米、一粒作るんだって一年かかるんだよ。」とか、
「お百姓さんに、申し訳ない。」とか、
「もったいない」「罰が当たる」「目が潰れる」とか、
色々理屈を付けて「ご飯は、最後の一粒まで食べなさい。」
と、言われて育っている。

我が家は、年寄りが「おさんどん」だったせいか、
その度合いが凄まじかった気がする。
なんせ、メシ茶碗にへばりついて、米の体を成していない「潰れたメシ」を、
お茶を入れて、掻き落として食べさせられたものだ。

ま、ついでに言うと、「付けられた物は全部食え。」とか、
「箸を付けた物は、何が何でも残すな。」とかとも言われた。

おかげで、「食べ物」を残すのが、苦手だ。
知人宅での宴会でも、目の前の料理を、
「身の程」も考えず、あらん限り食い続けてしまう。
食習慣の違う海外での一コマ。
あるクリスマスの食卓で「与えられた料理」、
これがまた「飽きる」程デカイのだが、
「死ぬ気」で全部食ったら、「もう一個食え。」と言われた。
それも、どうやら「完食」したら、「そんなに腹減っているのか?」と言われた。
簡単な事だ、「残しゃあ良いんだ。」と、初めて気が付いた。

こちとらも良い歳の「大人」になった。
「食物」の量の「調整」「制限」も切実だ。
食いたいだけ、食っていたら、「体重」は勿論だが、
多方面に渡って、健康上に問題が出て来る。
何たって、ちょっとの「食い過ぎ」でも、すぐ胃がモタれる。

だからこそ、今、「残す」勇気が必要だ。
「もったいない」なんて言っていると、「自身」「肉体」に跳ね返る。
そう自分に言い聞かせている毎日だ。

「炒飯」とは違う方向に話が進んだのは、ご愛嬌って事で…。

「あー、レタスと中華のソーセージが入った炒飯が食いたい。」
何ぞと思いつつ、「賄い炒飯」を食うのでした。
少ーし、盛りが多かった。ちゃんと残しましたとさ。


newport宮木英貴



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