残った「米の飯」を、セッセと冷凍庫に貯めて、良い量になったら「炒飯」。
「賄い」のパターンとしては、そんなところ。
ほとんどの「日本人」は、そうだと思うが、子供の頃から、
「米、一粒作るんだって一年かかるんだよ。」とか、
「お百姓さんに、申し訳ない。」とか、
「もったいない」「罰が当たる」「目が潰れる」とか、
色々理屈を付けて「ご飯は、最後の一粒まで食べなさい。」
と、言われて育っている。
我が家は、年寄りが「おさんどん」だったせいか、
その度合いが凄まじかった気がする。
なんせ、メシ茶碗にへばりついて、米の体を成していない「潰れたメシ」を、
お茶を入れて、掻き落として食べさせられたものだ。
ま、ついでに言うと、「付けられた物は全部食え。」とか、
「箸を付けた物は、何が何でも残すな。」とかとも言われた。
おかげで、「食べ物」を残すのが、苦手だ。
知人宅での宴会でも、目の前の料理を、
「身の程」も考えず、あらん限り食い続けてしまう。
食習慣の違う海外での一コマ。
あるクリスマスの食卓で「与えられた料理」、
これがまた「飽きる」程デカイのだが、
「死ぬ気」で全部食ったら、「もう一個食え。」と言われた。
それも、どうやら「完食」したら、「そんなに腹減っているのか?」と言われた。
簡単な事だ、「残しゃあ良いんだ。」と、初めて気が付いた。
こちとらも良い歳の「大人」になった。
「食物」の量の「調整」「制限」も切実だ。
食いたいだけ、食っていたら、「体重」は勿論だが、
多方面に渡って、健康上に問題が出て来る。
何たって、ちょっとの「食い過ぎ」でも、すぐ胃がモタれる。
だからこそ、今、「残す」勇気が必要だ。
「もったいない」なんて言っていると、「自身」「肉体」に跳ね返る。
そう自分に言い聞かせている毎日だ。
「炒飯」とは違う方向に話が進んだのは、ご愛嬌って事で…。
「あー、レタスと中華のソーセージが入った炒飯が食いたい。」
何ぞと思いつつ、「賄い炒飯」を食うのでした。
少ーし、盛りが多かった。ちゃんと残しましたとさ。
newport宮木英貴
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