そこら辺にある材料を、「バター」なんぞで炒めておいて、
「小麦粉」いれて、「牛乳」で伸ばす。
特別な「技術」も「材料」もいらない。
そんなんで「クリームシチュー」が出来上がるんなんて、
「コック」さんになって、初めて知った。
子供の頃、「クリームシチュー」は、この上ない程のご馳走だった。
「SB」の「クリームシチューの素」は、「神秘」「崇高」な「箱」だった。
何だか分からない程、難しい作業の「結果」としか思えなかった
だったはずが、
「クリームシチュー」の「出来上がり」のシステムを知った時は、
「感動」もしたが、余りの「単純さ」に、「愕然」ともした。
おかげで、それ以降「十数余年」、「クリームシチュー」を食する事はなかった。
ところが、最近、「懐かしさ」の後押しも有って、
「賄い」に登場するパターンが出来た。
ある意味「簡単」に「当たり前」に美味しくできるし、
材料は、そこらにあるもので、十分だ。便利この上ない。
当然、「クリームシチューの素」何ぞを使わずにだ。
ところで、何故「賄い」が「クリームシチュー」になったかと言うと、
某「忍路のパン屋さん」の「パン」が手に入ったから。
「パン」のお供なら、「スープだろ」って事だ。
ここ何年も、普通に食べる「パン」は、某「忍路のパン屋さん」の「パン」だ。
おかげで、普通に売っている「パン」が物足りない、
「パン」とは、別物に思える時さえある。
若干、金額的には「ガサ」が行くが、
真っ当な「材料」「手間」をかけた物は、やっぱり美味い。
それは理想の姿の一つだ。
あんな「理想的」を絵に描いたような「食い物」を作って売って、
そんな「商売」は、はっきり言って「羨ましい」。
し、そんな「理想的」な食い物が、身近にあるのは「幸せ」な事だ。
「幸せ」だなんて思わせる「食い物」なんて、やっぱり良い。
末長くあって欲しい物だ。
newport宮木英貴
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